スカイ・クロラ
最近、攻殻機動隊SACシリーズを見てその流れで押井守の2作「Ghost in the shell」と「イノセンス」を見た。同じ押井守という人がスカイ・クロラの監督だと知って、もう一度見返したくなった。
内容についてはすでに語られているし、私は評論することに向かないと思うので記事を紹介するにとどめたい。言いたいことは明確なのに、自分でも書こうとしたけれどうまく文章になってくれないのですよね。
スカイ・クロラ I kill my father.: カオルとぼくと仲間たち
(ネタバレ含むので注意。ネタバレしたところでこの作品の魅力が減るとも思えないけれど)
先の記事にはこうまとめられている。
これは希望の物語である。
絶対に勝てない敵。絶対に勝てない敵に殺されるために繰り返される生。それでも違う景色に出会えることもある。いつの日かティーチャーを倒せる日が来るかも知れない。少なくとも、未来を信じて前に進むことは絶対に価値がある。そうでなければならないのだ。
圧倒的に絶望的な物語を通して希望を語る。
生きることの虚無の中で自身の手で未来を切り開こうとする。その愚かな行為 (だって結果死んでしまうことがわかっているのにそれをするなんて愚かだ) に願いや希望、人の意志を見出してそれを肯定するような作品だと思った。
それから、勝てないことがわかっている、つまり戦死することがわかっていても挑むというのはある種の自殺ではなかろうか。それもとびきりポジティブな自殺。
もちろん勝ちにいっているのです。成功すると信じているしそう努めている。けれど客観的に判断したらうまくいかないことはわかりきっている。その上で決行したらそれは自ら死にに行っていることに他ならないではないか。
草薙氏が無謀にも単独でティーチャーに挑みに行った時にも以上のような意図を察してしまった。でもあそこでの彼女の心境は掴みきれなかったな。もう一度見てもいいな。
こういうのは前にも感じたことがある。
銀河英雄伝説のロイエンタール元帥がやったことも、自身の矜持と生まれながらの考えがそうさせたポジティブ自殺だったと思ったのだった。
獣の奏者も意志の力が強かった。彼女は、エリンは生きようとしていたけれど結果的にああいう人生を送ることになったのは彼女の...なんて言えばいいのか、獣への思いからでした。
不利益を被ることを知りながらそれをするのには理由が要る。
生きるに値する理由があるとしたら、そういう理由のためなのではないかしら。
スカイ・クロラではそれらが繰り返しのはずの生に変化を与えた。
生きること。信じること。成長しようと努力するのは決して無価値ではないこと。
この作品を教えてくれた人もまた生きることの絶望と闘っていたのかもしれない。
夜通し語ること-人間讃歌
時たま誰かと一晩中話して、話し続けて朝になるということを経験します。そこで話す内容も、喋っていられることそのものもかけがえのない好ましいもののように思えます。
ちなみにこれ話す相手は必ずしも恋人やそれに類する人ではないので、誤解のないよう。
夜というのは普段開けない抽斗を開けてみようかという気にさせる不思議な力を持っていますね。
言いづらいこと、埋もれていた過去も、伝えていない想いも、誰にも話したことのない野望も、性愛に関することも、夜に隠れて零れてくる。
時に抽象的なまま科学のことなんかを語った。その議論には学術的価値なんか無くて、どちらかといえばその人が持っている信念が垣間見えるのだ。大切にしたいものや相容れないものの話をした。これは本業における価値観と言い換えてもいいかもしれない。大抵は話す相手と私の本業に科学が位置していたから。……いま私にとって科学の位置づけは変わってきたように思うが。
過去のことも興味深い。どんな風に育って、何を考えて、結果今ここにいるのか。影響を受けた出来事はあったか。それらによってその人の人物像が立体感を持つ。
育った環境というのは自分で選べはしないのに、確実に人の基盤を作り影響し続けるのだと思った。しかし一方で、多くは親と心理・物理的に離れ環境が変わることで軌道修正が可能だとも追記しておく。そうじゃないと努力する甲斐がないからね。
以上のような内容は得てしてその人にとって重要であった。私にとってもそうだ。無闇に他人に晒して挙句に軽んじられたり傷つけられたりしてよいものではない。
だからこそ、それを開示し、語れる相手というのは得難いと思うのです。
これを書く私もまた夜の続きであるところの朝に捉われている。
音楽の聴き方、演奏の作り方
私には音楽の聴こえ方が変わった時点というのが存在します。
それは多分、プロの音楽づくりを間近に体験してからのことだと思われます。
楽器を始めたのは高校生、楽器に没頭したのは大学からだけど、それらの時点ではまだ弾くことしか頭になかった。
譜面を追い、音価通りに、強弱記号を見ながらただ音を並べることで精一杯だったし、それ以上どうしようなんて考えていなかった。気にしていたのは楽器の性質上難しいレガートな奏法とか、いかに大きな音を出すかとか、ミスなく速弾きをこなすこととか、他の人と合わせるとか、指揮をよく見るとか、そんなことばっかりだった。
でもどうやら違った。
そんなのは序の口にすぎなかったし、努力の方向性を誤っていたようだった。
まず楽譜を見たとき、頭の中で音を鳴らしてイメージする。どんな音楽か考える。それから楽器を手にとって鳴らす音をそのイメージに近づけてゆく。ある時、練習とはそういう作業なのだと知った。
例えば......
f (フォルテ) は強くという意味で、クレッシェンドはだんだん大きく。p (ピアノ) は弱く、デクレッシェンドはだんだん小さく。これは辞書通りの意味だ。
けれど譜面と対峙した時、強弱記号ひとつとってもその意味はもっと豊かに捉えることができる。
ここのfは元気な明るいf、和音も単純で、リズミカルで楽しげなところだからはっきりとスタッカートぎみに弾いてみようか。実際の音量に拘るより少し前のめりなリズムの取り方をして元気に感じさせよう。今にも駆け出したいようなリズムにしたい。
こっちのfはもっと深刻さのあるfで、不安定な響きの和音を使った悲劇的なシーンだ。リズムより和声的な表現を優先したいから各パート自分の弾いてる音と周りの音をよく聴き合って、バランスをとる。バランスといってもきれいに響くようにするんではなくて、思いっきり濁らせ、ぶつけて、不安定さを前面に出す。そうすれば次の小節で解決されて安定した響きがより際立つ。不安定から安定に解決するのに伴い強弱も自然に強から弱へと変わる。体重移動するように、ごく自然に。音色をやさしく変えてゆくのも良し、不安定さを強調するように前の音は少しだけ長くとるのもよし。
リズムひとつとっても、引きずるようなリズム、前のめりなリズム、踊りだしたくなるような一定した軽快なリズム……それらを実現するために、強拍を強め長めにとったりあるいはタイミングを少し早めにとったり、遅くとったり、メトロノームのように無機質ぴったりにとったり。
その上で曲の全体像考えてやる必要がある。起承転結をつくるように曲全体の流れをつくる。前後のつながりや断絶、メリハリ、緊張感……それらを監督してくれたのが当時師事した先生だった。
これ以降わたしの音楽の聴き方は少しずつ変わっていった。
リズムや和声、曲の構成、音色や音量や音の長さの変化、演奏者がそれらを使ってどう表現したいのかなんてことを考えながら聴くようになった。まだまだ不完全だけれど聴いてわかることがとてもとても増えたのだった。
同時に表現することの面白さも知った。やりたいことに対して技術が追いつかないのが悔しくて、それが練習のモチベーションにもなった。
ここからは余談だけれど、実はこれによって良いことだけでなくて弊害というのか、イライラすることも出てきた。
調和してほしいところで濁ってる、リズムがめちゃくちゃ、拍子が感じられない、流れやゆれが全くない音楽なんかに不満を感じるようになった。(流れやゆれがないってのはそういうものだと捉えることもできるが)
ものによるけれど、聴いてしまうと違和感を覚える。もっとこう……違うよう……ああああああちがう………ってなる(笑)
けれど分析的に聴くことってやっぱり楽しいので、今後とも聴く力をつけていきたいです。具体的には音程と和声の感覚がほしいです。
あとは聴くだけでなく、自分で表現を考えて設計し演奏に反映させることもやりたくなっています。音楽がしたい!
※18年7月の過去記事を元に作製
夜のお散歩でのモノローグ
夜にお散歩するのが好きです。
暗いからあまり先が見通せない。そのせいでどれくらい歩いたかわからなくなる。けどなんだか浮かれた気持ちになっていてどこまでも歩いていける心地がする。過ごしやすい季節、暑くも寒くもなく、ふんわりと風が吹いていたらなおいい。
それからこれは実家に引き上げてからですが、夜に出歩くことが少なくなりました。夜出かけようと思うと泊まるか遅くに帰る手段を確保しないといけない。家の周りは獣が出て危ないしね。
だから夜に散歩なんて呑気なことができるのは、東京での一人暮らし、自由の象徴でもある。
自分の裁量でどこへでも行ける。いつ帰ってもよくて、誰と過ごしてもいい。
歩いていると考えごとが捗ります。
明日の予定についてとか、友達への贈り物は何にしようとか小さいことから、この先の身の振り方、いま抱えている問題のおおもとの原因は何かとか大きいことも。
どことなく楽しげで気が大きくなるのに冷静でいられる。何か決断するのにちょうどいいコンディションなのかなと分析しています。
進路が決まろうとしている今、そういう充実したひとりの時間がほしいと思うのです。
初回投稿らしい記事
かつてブログを書いていた。
それは誰のためでもなく自分のために、ただ散らかり放題の頭の中を整理するために綴ったものだった。
大事な人が死んでしまって、自分の本業もままならなくて、同居家族との関係もぎこちなくて、考えることがたくさんあった。同時に体調も悪かったから症状の把握と対策なんかを考えたりもしていた。
当時、ブログを書くことは治療的にはたらいた。
いま、もう必要無くなったそれをもう一度綴るとしたら、なんのためにだろうか……
という風にブログを書く目的なんかを初回投稿では書くんでしょうけど、やめます。なんで書くかって?ひまだからです。ひますぎる。
くだらないこと4割、まじめなこと5割、頭のおかしいこと1割を目指そうと思います。
日々の具体的な出来事は書きません。無益なので。
どちらかといえば日々降り積もっていく引っ掛かりを言語化していきたいと思っています。あとは見たアニメの感想とか。
それから自他共に認める飽き性です。
続かないことは最初からわかっている。だから1ヶ月更新が滞った時点で公開停止するつもりです。あしからず。